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     2012.11.16 Friday
先日能登・金沢にいってきた。


近江市場、兼六園、金沢城、、、NZに行ったら、こんな秋の風景とも縁がなくなるだろうから、目に焼き付けてきた。


コンタクトレンズに印刷して貼り付けたいくらいだ。


輪島朝市。おばあちゃんがみんな同じにこにこ顔。でも隙あらば「買うてな!」と。良いところでした。


それはそうと、今回は復路に飛行機を利用した。そんな贅沢な!って思うでしょう、でもクレジットカードで貯めたマイレージで行ったから、贅沢どころか節約旅行になったのだ。マイルについてこちらでも書いているのでよかったらどうぞ。



羽田に着陸する時、アプローチしながら結構ぽこぽことゆられた。ガスト(突風)が入っている。少し速度もっていくのかな、と知ったかぶりをする私。

滑走路が近づいてきて、なんとなく(先入観もあってか)速いなーって思っていたらかなり強めの接地。直後にものすごい強さでぐいっとラダー入力が入って小さく悲鳴を上げる人も。。。後ろの人が、こんなことを言っているのが聞こえてきた。

「行きの飛行機はスムースだったのにこの飛行機は着陸のショックが強くてだめだ!パイロットの腕がないんじゃ、、、」


いい着陸ってなんだろう。
着陸というのは、いわば制御された墜落だ。飛行機が車に移行する瞬間、そこには必ず断絶がある。その断絶をいかに目立たなくするか、というのも一つの考え方かもしれないし、成功すればさっき私の後ろにいた人なんか(つまりお客さんのほとんど)は「このパイロットは上手い」ってことになるんだろうけど、果たしてそれは本当にいい着陸と言えるのだろうか。


席は絶対窓側の私。能登発、羽田行き。夕方離陸して、日没後間もなく着陸する便。景色がめっさきれい。


ピンポイントを狙っていくには修正を小刻みにしなければならない。[1] 滑走路が近づけば近づくほど、センターラインや接地点からのブレがよく見えるようになる。そのブレが小さいうちに小刻みに直していかなければならないのだ。ところが、地上付近は上空より気流が巻きやすい。最後の最後まで、どんな気まぐれな風がいたずらしてくるか油断できない。そういう状況でいつまでも小刻みに操縦桿を動かしていると、万一風の変化に対応しないといけない状況になったときに正しい操作ができない恐れがある。動かしていると、わからないからだ。

だから、ある程度まで地面が近づいたら、コントロールを固定して手や足をセンサーにしておきたい。それはもしかしたら、ピンポイントに脚をつけることをある程度諦めることになるのかもしれないし、強めの接地になるかもしれないけれども、攻めた結果失敗するよりよほどいい。なにしろ、パイロットは毎日毎日飛行機を飛ばすのだ。たくさんの100点満点を取っても、一つでも5点とかあったらまったく意味はない。及第点を一生取り続けるには100点を狙うことを頭から追い出すのが一番いい。

こんなこと言うとプロ失格だって言われるかもしれないけれど、着陸に際しパイロットが考えることは如何に許容範囲の「墜落」をするかということなんだと思う。それが許容範囲を超えそうだったらすぐにやり直す。いつまでも100点を狙っていると、超えてはいけないその先に行ってしまうかもしれない。心のもちようは、姿勢を確立して、接地を待つ、だめだったらやり直す。でいい。精度を磨くということとはまた別の話だ。[2]

お客さんはがっかりするかもしれないけどね。



1. 私はそうだった。他の人がどうかは知らない。
2. いつかこんな記事を書いたことが恥ずかしくなるくらいうまくなってやろう。


     2012.11.16 Friday
子供に夢は何ですかと聞けば、皆たいていこう答えるとおもう。

「ぼくの夢は、〜になることだい!」

で、実際にその夢とやらにコミットし始めるとその成りがたさにびっくりする。夢が破れる瞬間を想像することが恐怖なわけだが、この半ば自動的な「夢」の捉え方は果たして夢をかなえるのに良い方法なんだろうか。

私は今、まさにそれにコミットしている段階だが、「パイロットになりたい」と強く思うことはこの夢を叶えるのに必ずしもよい選択肢ではないのではないか。そう思う。まずはインストラクターになって、少し後にB3のコクピットに座るぞ!と、ポジションが欲しいと思うことは、ある時期強力なモチベーション源になるけれど、それが手に入らなかったらどうしよう、という恐怖が誘導抵抗のように常につきまとう。翼の最大揚力を引き出そうと仰角を上げて行くときに似ている。揚力が大きいほど、抵抗も大きくなる。


ポジションか、好奇心か。
一方、そういう抵抗から自由な人もいる。

今週の週間モーニングには、バガボンドが掲載されている[1]。吉岡一門を殲滅したあと、その残党に追われながら放浪している武蔵は今、とある痩せた土地を持つ農村に落ち着いている。そこで伊織という孤児の畑を手伝っている。そこへ細川藩の侍がやってきて、剣術指南役としての仕官をオファーするのだが、武蔵はそれを断った。その場に寝転び、「強くなるのはやめた」と。強く「なる」のではなく、強く「ある」ことにしたという。強く「なる」にはどこかに行ってだれかに認められなければならないが、強く「ある」ことが出来ればどこにいるかは関係ない。したがってここに、このいびつな農村にこのままいる、というのだ。なんとまぁひねくれたやつよ。

武士の家計簿」は、江戸末期の加賀の話だ。そこに出てくる侍は、兵士ではなく御算用者と呼ばれる役人であり、下級武士である彼らのうち、大半の者の関心ごとはやっぱり出世というポジションだ。ところが主人公の猪山直之にあっては違う。(もちろん誇張はあるだろうが)彼にとって重要なのは、出世という椅子取りゲームではなく、ただ「そろばんをちゃんとやりたい」というミもフタもない知的好奇心だけだ。なんだか、アインシュタインみたいだ。

宮本武蔵や猪山直之やアインシュタインのような態度は、夢はかなえるものという前提そのものをひっくり返す。夢はかなえるものではなく、楽しむものであるということか。そう視点を変えれば、失うことに対する恐怖という誘導抵抗を限りなく小さくできる。[2] そういう態度で私はパイロットをやっていたいと思う。




1. 作者多忙につき不定期掲載なのだ。
2. さぞ細長ーいアスペクト比のでかーい翼なんだろう。
     2012.11.07 Wednesday
先日、学校の教官募集にCV(履歴書)を出す機会があったのだが、それを書いていて思ったこと。

Achievementという欄に書く内容を考えあぐねていた。日本の履歴書なら賞罰みたいなものか。。。卒業証書と資格証書をのぞいては、およそ賞状というものからは縁のない人生だった[1]ので、それをいきなり目の前に見える形で見せてみろといわれても書くことなどない。学歴や資格は別に書く場所がある。そのうちなんかあるだろと思って放っておいたが、他の全ての内容を書き終えた後も、紙面には口をあけたままの空欄が。

ずーっと考えていたのだが、学生じゃないんだから仕事の成果を書けばいいのでは、と気づいた。ならば、ショックアブソーバーの特許を2、3取ったことがある[2]のを思い出し、特許広報みたいなサイトから見つけ出して登録番号とともに書いて無事提出した。

目の前の仕事を片付けろ!
数年前の自分に感謝しなければならない。あのときは、C制度やらなんやらで心はパイロットになると決めていたが実際にやることはパイロットとは関係のない仕事で、プライベートと仕事で完全に精神が分裂して辛い時期だった。でも目の前の仕事に100%で取り組まないとすぐに見抜かれる状態だったので、適当なことはできなかったし、まわりに適当な人がいたら軽蔑していた。モチベーションなんか全くなかったけど、やる気なんかなくても仕事はできる、と言い聞かせてその時点での最高のアウトプットを目指して仕事をしていた。それがパイロットの仕事をつかむ段になって思いも寄らぬ形で役立つものだということを今更ながら知った。

よく考えれば、仕事が変わるからって前職とそれに続く仕事に断絶があるわけないのだ。仕事をするのは自分なんだから。今、地上にへばりついてやっているパイロットとは関係ない仕事に対する態度と成果は、自分という仕事の主体が変わらない以上「パイロットとは関係ない」ことはあり得ない。未来のことは未来の自分に任せればいい。たとえ乗り気のしない仕事でも、それが目の前にあるうちは成果として結実させるためにコミットすることが出来る。未来の自分に武器を渡すつもりで目の前にある無駄に見える仕事を全力で片付けることだ。

それがそのまま出るぞ。



1. 唯一思い浮かぶのは小学三年生のときの写生会で描いたショベルカーの絵に貼られた赤紙だ。
2. もちろん特許権は会社に帰属してます。入社時にそういう契約書にサインします。日本の悲しい風習。
     2012.11.01 Thursday
前回の記事で紹介したぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)の中に、こんな一文が。。

お勧めなのは、巨大書店の書棚をすべて隅から隅まで見て回ることです。すべて見るのが大変なら、文庫と新書コーナーだけでもいい。現代社会の知の全体像が大ざっぱでもつかめると思います。


ということで巨大じゃないけど本屋に入って新書コーナーを見たのが悪かった。衝動買いしてしまった。。。



この記事のブックリストにある本からつぶしていくつもりがまた本が増えてしまった。でもこの本面白い。日本人と同じく平均身長が170cm代のスペイン代表が世界一になったのはなぜなのか。FCバルセロナのスクール・コーチである村松氏は、1996年大学卒業後に単身スペインへ渡り、バルセロナの指導者への道へ。うーむ、人生をかけて海外へ、という時点でなんだか親近感。


野球的なるもの
著者は、日本で古くから浸透しているスポーツである野球と比較して、サッカーの特徴をこう指摘する。[1]
野球には「守りながら打つ」ことはあり得ません。つまり、「攻守の切り替え」という概念が存在しないのです。


これに対し、サッカーでは「攻守の切り替え」がプレーの中で頻繁に起こるため、状況が流動的で、いつどこで何をするかを事前に決めておくということは出来ないという。うむ、確かにそうだ。私もフットサル(小さいサッカー)をするが、ボールをコントロールすることはできても(それとて簡単ではないがね)次に自分が何をするのか頭の中にないときにボールをもらっても、たちまち敵に囲まれるだけだ。ボールをもらってから考えていては遅い。だからそうなってしまったときは、やむなくパスをくれた仲間に間髪入れずに戻すか、自分のテクニックでボールをキープするしかない。いずれにせよ、状況判断の遅さが局面でのピンチを増幅させて決定的なピンチを招いてしまうのだ。こういう意味では、野球とサッカーは正反対の性質を持つと言える。

スペインに渡って間もない頃、私は子供たちに課すトレーニング方法がなかなか受け入れられない現実を目の当たりにして、ある疑問が頭に浮かびました。それは、日本人として育った私の頭の中に、野球の考え方が無意識のうちに刷り込まれているのだはないかということです。


ぎくりとした。私も小さい頃からサッカーをしてきた。遊び(それも数えるほどだ)以外で野球はやったことはない。それでもやはり、ある特定の技術要素、例えばサイドキックやヘディングやゴールへのシュートというようなことだが、その「練習」を個別に繰り返し行うという経験を数えきれないほどしてきた。著者によれば、これは「野球的」な練習と言える。

お子さんと一緒にボールを蹴っているお父さんコーチの皆さんはいかがですか?「素振り100回」と同じ間隔で「パス交換100回」という練習メニューを課していませんか?


サッカーのこともそうだけど、私がぎくりとしたのは、20代後半になって始めた飛行機の訓練の取り組み方もまさに「野球的」だったからだ。サッカーの経験しかないのに。プロシージャの練習、テストの練習、手と目の動かし方の練習。。。やってきたことを一言で言えば「全体を把握した上で要素にわけ、あとはそれぞれを個別に反復練習」だ。

誤解のないように言っておくが、「野球的」といっているものが良くないといっているわけではない。前述した「試合中に要求されるものの性質に決定的な差があるのでは?」という話が正しいと仮定した上で、練習への取り組み方をその考えに沿うように区分けしたときに、私がやってきたことがどちらに偏っているかということを確認しただけだ。実際、今言った「反復練習」は必要なことだったし、フライトにそれを持ち込まないようにしたことで飛行時間を押さえて免許を取ることが出来たのだ。


サッカーはサッカーをすることでしかうまくならない
だがやはり要素練習だけでは「上手く」なることはできても「強く」なることはできない。フライトの流れの中で何をやるべきで、何をやらないべきかということを判断するのは、フライトという実戦を重ねることでしか体得できない。

著者の前著に、『テクニックはあるが、「サッカー」が下手な日本人 』というのがある。このタイトルについて、著者の職場であるバルサスクール福岡校の同僚(スペイン人)に「日本人はテクニックがあると言えるのか」と突っ込みをうけたらしい。つまり、

スペイン人にとって、テクニックとはサッカーの中で活かされる技術のことを意味します。つまり「テクニックはあるが、サッカーは下手」というロジックは成り立ちません。


実戦で活用できてこそのテクニックだ。[2]要素に分割してそれを極めていくと、ともするとそれを忘れがちになる。何の為のMax rateか、なんのためのSteep Gliding turnかなんのためのForced Landingか。

そこんとこいくとニュージーランドの訓練環境(ハードウェア)は、とても「サッカー的」だった。大筋のシラバスはあるが、試したいことがあれば安全の範囲内で出来るし、程よい忙しさの国際空港を拠点としながらタッチアンドゴーが何回も可能な無管制空港がすぐ近くにあるし。ILSもVOR/DMEもPAPIもあるし。私の訓練に対する取り組み(ソフトウエア)が野球的だったから、結果的に程よく混ざってよかったのかもしれぬ。笑

ただ、これから教えることになるだろう外国人の生徒たちは、日本の「野球的」なものに触れたこともない人もたくさんいると思うから、そういうものがあるということに自覚的になろうとおもう。


1. 「指摘する」といっても、「こういう見方があるので、とりあえずこれを正しいと仮定して話を進めますね」という持っていき方。「野球とサッカーが異なる」と主張している訳ではない。
2. サッカー選手としては耳に痛すぎるんですがね。



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